第1回、私って何?
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
COSMOSです。
タイトルを見て察した通りに初回からガチの哲学です。
私とは一体、何でしょうか?
多分ですが、いきなりこんな質問されても困りますよね?
自分自身が何者であるかという問に瞬時に応える事が出来るならば貴方は哲学をやった事があるのでしょうね。
話は少し変わりますが皆様は「我思う故に我あり」という言葉はご存知でしょうか?
自分が今、考える事が出来ているという事は自分は存在しているという事です。
普通に考えればこれはどのような壮大な理論をもってしても覆す事の出来ぬ絶対的な事実であるという事が分かります。
「自分が考える事が出来きる」ならば「自分は存在する」
このようなものを論証と呼びます。
前提『自分は考える事が出来る』
↓
結論『自分は存在している』
論証には必ず、前提と結論が存在し前提から結論を導き出すことを導出と言います。
さて、この導出は正しいでしょうか?
答えは言うまでも無いと思います。
前提と導出が正しい時、「その論証は正しい」と言います。
「我思う故に我あり」は正しいでしょうか?
答えは言うまでも無いでしょう。
何故、このような当たり前な事を書いたかと言うとこれが私の哲学の根源だからです。
「我思う故に我あり」を前提として様々な事を哲学的に考えています。
これ以上に強力な事実を私は知らない為にこれを
「根源的事実」
と呼びます。
また、ここから導き出される事実を
「絶対的事実」
と呼びます。
さてさて、本題にようやく戻りましょう。
これで「私は存在するモノ」だと言うことが明らかになりました。
では他の人はどうでしょうか?
もしかしたら自分意外の人間は心(クオリア)の無いシステムの通りに動くだけのロボットやゾンビの様な存在(哲学的ゾンビ)かも知れませんし、そもそも幻覚で相手が存在しない可能性も存在します。
さぁ、私の言いたい事が少しは分かってきたのではないでしょうか?
他の全てと自分の違いは
根源的事実として存在する事が確定しているかどうか。
です。
これが私の考えた「私の定義」です。
他人がどうかなんて知らないけども自分の存在だけは絶対である。
かなり独我論的な考え方で寂しいかも知れませんね(´・ω・`)
今日の授業はここまでです。
このブログでは題材を募集しています。
哲学的なもので有れば飛びついて行きます(笑)
話し合いをしてこその哲学だと考えてますので、もし良ければ参戦して頂けると助かります。